【ゆっくり解説】新選組五番隊隊長 「武田観柳斎」【歴史】
こんにちは、まこえもんです。
今回の動画は、新選組五番隊隊長「武田観柳斎」です。
ブログでもちょっとだけどんな人物か書いてみます。
新選組五番隊隊長 「武田観柳斎」
動画作成でいつも色々調べながらやってるんですが、この隊長さんはとても残念な人でした(笑)
確かに文武両道でとても素晴らしい人なんですが、ちょっと残念な部分が多々ありましたね。
男色家
まずやはり、男色の趣味があったという事実です。
もちろんそういう人がいけないと言っているのではありません。
相手が嫌がってるのにも関わらず、続けるのがダメなんです。
新選組隊内でも男色が流行していたらしく、局長の近藤勇は悩んでいたと記された書簡があります。
まぁどこまでの流行りだったのかは今では推し量れませんが、後世の人が面白おかしく書いたものも多いと思うので、鵜呑みにしてはいけません。
その男色の中心?がこの隊長さんなんですよね。
女人禁制の新選組ですから、そういう人がいてもおかしくはないです。
他の隊士たちは迷惑かもしれませんが…(笑)
当時は、武士の嗜みとして若い男の子を相手にすることも珍しいことではなかったみたいですね。
時代に取り残された武田の甲州流軍学
新選組入隊間もなくは、軍事演習では軍師として活躍していました。
その後も、軍事方に就いて武田は甲州流軍学による調練を担当したりもしており、近藤勇からも重用されます。
もともとこの甲州流軍学に感銘して「武田観柳斎」と称するようになりました。
本名は動画内で確認してください(笑)
ですが、幕府が最新のフランス式兵制を取り入れると武田の甲州流軍学は時代遅れとなり、隊内で武田の地位は揺らいでしまいます。
そこから武田は崩落していきます。
倒幕思想に傾倒
武田は佐幕派の新選組の隊長でありながら、倒幕思想に傾倒してしまいます。
これは伊東甲子太郎の影響もあるでしょうが、その伊東から御陵衛士に参加することは認められませんでした。
そんな思想の持ち主が新選組にはいられないので、武田は近藤に除隊を願い出ます。
認められたものの、新選組から目はつけられるでしょうね。
最期
除隊後、密かに倒幕活動をしていた武田は新選組時代にしつこく言い寄っていた「隊内美男五人衆」の一人、馬越三郎に薩摩藩士の家から出てくるのを見られてしまいます。
そりゃもう馬越は憎き武田が倒幕の中心にいた薩摩藩士宅から出てきたものだから、速攻で近藤に報告しますよね。
この情報を元に、武田は新選組によって暗殺されてしまいます。
場所は京都郊外の鴨川銭取橋で、斎藤一に暗殺されたのではないかとする説があります。(当時斎藤は御陵衛士に間者として参加していたため有り得ないとする説もあり)
動画を作っていると、どうしても勉強しながらじゃないと作れないのでこういった事実も知識として増えていきます。
自分の知らなかった出来事などが知れるので、動画作りは楽しいです。
ただ、ほんとに時間はかかります(笑)
動画ではもっと詳しく分かりやすく解説しています。
よかったら、見てみてください。